今月のメッセージ

      
 
 

 

の子だれの子(平成19年12月) − 子にしかめやも − 


 市内の小・中学校で新らしく始まった 「オープンスクール」期間中は生徒の保護者ならずとも、地域の皆さんどなたでもどうぞ!!「子どもたちの様子や授業参観に全ての教育活動を公開、多くの皆さんに学校を身近に体感していただく」ことがねらいです。  こんな案内に中学校を訪ねた。折しもクラスで学年でと予選を済ませ、代表として選ばれた弁士たちによる校内弁論大会の日であった。家族の絆・将来の夢・進路や目標等の他に、同居の祖父母やペットの死をとおして「いのち」に関する演題が目立ったが、中でも3年生の弁論はさすがに一段と際立っていた。  しばらく後に次は小学校も同じくである。クラス毎の授業参観とは別に1・2・3年生と4・5・6年生とを二つに分け、体育館での「音読会」だ。6年生は宮沢賢治の雨にもマケズ、平家物語や清少納言の枕草子が登場するなど、はっきりと大きな声を出して、その音読ぶりに正直おどろいたものである。  さて、30数年以前のこと、小学校で何らかの行事に際し、当時の連合自治会長が「子どもは地域の宝だ」と挨拶の中にこの話を必ず盛り込まれていたことを想い出す。  多勢の相手を前に正々堂々と自分の考えを語れる中学生、そしてかなり長い時間を台本なしでの音読、そのすばらしい記憶力の小学生。  これらの子どもたちを地域の宝だと、挨拶をとおして折にふれ繰返し語った古老は、何かひとつの理念らしきものを持たれていたのであろうと思う。 「しろかねも黄金もたまも なにせむに    まされる宝 子にしかめやも」  万葉の歌人憶良もこんな歌を詠んでいる。  この宝をどう磨くのかが大人社会の責務である。

 

の子だれの子(平成19年11月) − お祭り体験 達成感 − 


  9月半ばであったか、秋まつりに備え屋台の乗り子を務めるこども達が太鼓の練習を始めた。「少子高齢化」は我が町内も例外ではなく小学6年生は一人、子ども会は男女を問わず4年生以上の全員が参加である。  いよいよ本番の前夜に練習会場を覗いた。「オヤ」?なんとも言えぬ和やかさが漂っていた。日頃はこどものことは女房任せであろう父親の顔も揃っている、どうやら最終日とあって夫婦揃っての参加であろうか。  額に汗を滲ませて4年生女児の枹捌きにあどけなさが溢れている。  太鼓の練習に役立てばと指導を申し出た町内消防団の有志にも感謝の声が届けられた。その場が醸し出す空気とでも言うのか会場全体から喜びや嬉しさが湧き上っていた。  以前に中学生対象のアンケートで、親との会話は一日の中でほんの数分だとか、そんな記事を目にしたことがあった。こどもたちの世界もメールでのやりとり、パソコンやインターネットと画面の中での会話へと進む。大人社会や職場でも向き会う相手はいつも画面だ。もちろん職種にもよりけりだが人と人とが目を合わせ、相手の表情を確認しながらではなく、本来のコミュニケーションから遠ざかっているのが現実だ。立場の違う型で若くて元気な消防団員との関わりをとおして親と子が何を感じたであろう。  若者に欠けているものに挙げたいひとつに、自尊感情の低下がある。  ハイ!!リーダーの掛け声に息を整え心をひとつに結ぶ。学校の授業では味わうことの出来ない貴重な体験だ。  達成感や自信、お互い声を掛けあい相手に合わすことの大切さ等は人間として生涯持ち続けたいことだと思いたい。

 

の子だれの子(平成19年10月) − 半身不随の特効薬 − 


   知己の一人が脳梗塞で入院した。右半身不随で身体の不自由さに加え、言語障害も重なり何を言っているのか言葉の意を解せぬ不便さに、その厄介ぶりは並ではないこと、それでもいのちが助かったことは一番の幸いだったと思っていますと彼の妻は言う。父親を心配して駆けつけた二人の息子たちは、涙を溜めて泣きながら「ア…がト」「アーが〜」。どうやら「有難とう」と言っているらしいと気付くと同時に、次の瞬間「おやじは死ぬ」?そんな気がしたと話した。その理由はいつも頭ごしに怒鳴るか、居丈高な物言いが当たり前の姿からは想像もつかぬことばと態度がそう思わせたと言う。ある日、何の前ぶれもなく突然に訪れる災難とでも言おうか、こんな場面に出食わすと日頃は忘れているであろう家族や肉親の協力や助けあいの、いかに必要不可欠であるかに改めて気づきを教わることになる。  自宅から病院までの往復、お互いが日程を繰り合わせ交代での付き添いも必要だ。「今夜はお母さんも家へ帰ってゆっくり休んで」と息子の家族からの申し出は、他家のことであっても実に嬉しい。非常時こそ、日頃からの絆の大切さが問われる所以である。IT化、オートメ化などの進化は著しく、非対人的な仕事が増え職場に真の相談相手が居ない。携帯電話の普及にも同じようなことであろうか、家族同志でも職場に於ても、人と人との「つながり」生のコミュニケーションが希薄になりがちな現実にどう応えるかを問わねばならない。  動かぬ右手と右足、少しは聞き易くなったとは言え言語の矯正と、やがて始まるであろうリハビリに彼がどう向き会うか、「ありがとう」は一番の特効薬になると信じている。

 

この子だれの子(平成19年9月) − おかあちゃんは ジコチュウー? − 


  我が家から近いところに市立の小学校と隣接の幼稚園が並んでいる。平成20年には開校(園)30周年を迎える。  生徒数が1,000人を越した時期もあったが、今では当時の3分の1程度にと、少子化が顕著である。特に幼稚園児は減少の一途をたどっていたが、いよいよ来春3月を以って同じ中学校区にあるもうひとつの園と統合されることになった。  就学前教育としての一年間、5才児が通った幼稚園であったが、次年度からは4才、5才と2年の保育に変更となるらしい。  先般、来春入園予定児の保護者らを対象に両方の園長をはじめ市の関係者数人による改変事項の説明会が開催され筆者もその会場へ紛れ込んだ。  バラエティーショーの開演ではない、なんとも重苦しい雰囲気が充満していた。やがて市の担当者から現在の状況の他統合に至る説明があり、引き続き質問タイムとなった。 ▲2年保育ではなくこれ迄どおり1年にして欲しい ▲10人を割ったら仕方がないが、今の人数なら存続すべきだ。 ▲もうひとつの園には駐車場がない、どう手当てをするのか。 ▲毎日の送迎に今より遠くなるのが困る。 ▲上の子と下の子と違う幼稚園になるのはイヤだ。 ▲小学校との馴染がないから子どもが可哀想だ。 ▲近所の保育園には多勢の子が居るから、幼稚園へ来るようにしてほしい、等々と。  堰を切ったようにとか矢継ぎ早やにとはこんなことか、統合そのものに怒りさえ込めて・・・子どもが可哀想と泣きながら・・・敵意を感じるほどに声を荒立て・・・と質問と言うより欲求的な内容が多く見られた。我が子が可愛いのはいつの時代も変わらぬ親(母)心だが、親の自己(自子)チューも過ぎると危ない。

 

この子だれの子(平成19年8月) − A君のことその3 − 


 A君のこと  その3  事故の実情は「警察が調べた。詳細は言えない」と。いくら国が違ったとは言えそんなことで済まされるものか!!さらに私の懐疑心を駆り立てたのは、財布・携帯・腕時計など遺品と呼ばれる物が何ひとつ無いと言う。乗っていたのはタクシーだとか、ならばせめて事故現場の写真1枚なりとも提供すべきではないか。少なくとも医師による死亡診断書は?当然開示すべきであろうに・・・警察当局はいったい何を調べたと言うのか!!  今しがた悲しみの涙を落したその自分が怒りも頂点の心境に、まるで別人の慫である。「おかあ〜チャン」小学生の女児が遠慮がちに声を挟んだ。彼女が座を外したほんの数分が舞台での暗転となって熱くなっていた私の心に水を差してくれたのは有難く思えた。  出張とてめずらしいことではなく、毎朝の出勤はもちろん、5階の我が部屋からの見送りが常であったが、今回の出張はめずらしく1階へ降り、マンションの玄関まで見送り、「携帯にメールするわね」「出張までに職場への連絡などに必要だから、携帯を持っては行くけど、中国までメールは届かんわ」「あ〜ぁそうね、行ってらっしゃい」それが主人と交わした会話の最後に・・・」とあとは嗚咽に変わった。  仕事熱心の上にいろんな資格取得も目標に掲げて居た主人が、先般家族全員での一泊旅行を企画、子どもたちも大喜びでした。  旅先の宿で(こんなこと、これが最后やな)と言った言葉が本当になってしまいましたとも話した。 「駅までごいっしょさせて下さい」との申し出に応え彼女と肩を並べた。長男の勉強意欲が著しく向上したこと、妹たちも家事手伝いなど看護師として勤める母を助けてくれていると言う。悲しみに涙し、その不条理さに耐え難き怒りにも浸ったが、子どもたちの活題に嬉しさも格段の帰路、A君は家族たちの中に生きて居ると思えた。

 

この子だれの子(平成19年7月) − A君を悼む − 


 ー前号よりつづくー A君の訃報を耳にしてから早くも6ヶ月が過ぎた。葬儀には参列できなかったことは事実だが、もし差し支えがなくとも その気分になれなかったのが本音だった。  悲しみが癒えたとは思えぬが、少しは心の平静は取り戻せたかと、訪ねたい旨を電話での申し出にお互いが日程調整を。JR○○で下車、 そこからは地下鉄○○線にのりかえ・・・・などと道順を教わりA宅へ出向くことになった。  当方も服装の他に黒のサングラス、手には週刊紙、先程のりかえの駅で確認した電車の到着時刻も付け加えたが、改札口での混雑ぶりはどうであろう。 久しく出会っていない夫人の顔が判るであろうかと不安である。降車した客がほとんど改札を通過した頃を見計らって、一足遅れての出札 となった。丁重な出迎えの挨拶にあれこれと交錯していた不安が薄らいだ。 やがて案内されたのは高層マンション群の一室、新築間もないであろう部屋に小さくて真新しい仏壇はあまりにも不似合いであった。葬儀の際に使われたと思える黒縁の写真に、少し斜め向きで微笑んでいる彼と向き合い合掌して平伏した。自分でも驚くような大粒の涙が・・・ボトボト膝元の畳に落ちた。  ○○さん(筆者)のことは主人からよくよく聞いて居りました。仕事熱心で、いろんな資格を取るんだと勉強も怠る事がなかったと。今も亡くなってしまった気がしなくて、ひょっこりと笑顔で帰って来るような気がするんです。と夫人は除に語る。  妻子をの遺して45才の若さで、誰が死にたいものか!!事故のことはどんな具合であったのかの問いに、「一応警察が調べた、詳細は言えない」が返事でそれ以外は話してくれなかったと言う。  処変わればとは言うが、それにしても!!納得し難い!!

 

この子だれの子(平成19年6月) − 悲しみと回顧 − 


 知友からの電話に我が耳を疑った、「A君が亡くなったらしい」と訃報だ。会社からの出張で中国へ、到着した空港から次の地点への移動中に交通事故に遇ったらしい。遺体が日本に帰って来るのは一週間余り先のことであり、告別式の日程など不詳だと言う。  なぜ?…どうしてあのA君が…臨席した結婚式や長男の生年月日、転勤による何度かの住所変更など、彼のファイルを呆然と眺めていた。 〜あれから40年〜  団体での一泊旅行に出かけた父が、帰路バスの車中で逝った。あんなに元気だった父が50代の若さで、嘘だ!!嘘だ!! 「お父さん」!!と声を掛けると「あ〜ぁよう寝とったなぁ〜」といまにも起き上がって来そうな表情と、心臓の停止により温くもりの消え失せた人体の何とも冷たかったこと。   −そんな去りし日の我が体験が甦る−  おみやげを強請り、父の帰りを楽しみに見送った高校生の長男と妹二人、旅支度として身まわり品のあれこれをバックに詰めたであろう妻の心情はいかばかりであろうか。  病に倒れ医療の限りを尽くしたが薬石効なくと言うならば、家族としても少なからず心の準備も出来たであろうなどと、勝手な解釈をしている自分自身を可笑しくも思えた。  人間にとって予期せぬ出来ごとは付きもの、視点と考え方を変えてみると生きている証とも受け取れる。  深い悲しみ、思い責任、甘えとの訣別、孤独との戦い、人情の機微、感謝の念、などなど、多くのことがいまの私自身を育んでくれたことは確かである。  社葬には参列できなかったが、夫人や遺児たちとこんな話しがしたい。歳月を経て遠い記憶になろうとしていた大切なことをA君から改めて教わった。!


この子だれの子(平成19年5月) − 良い子の条件 その3− 


 大学教授の退官を祝う会には、名誉教授や現役の講師陣をはじめ同教授の研究室を巣立った数多い卒業生たちが集い来た。  既に社長と呼ばれ、地元商工会などに企業として名を連ねる経営者のグループ達も恩師を囲む。お互い久々の対面に笑顔が溢れ、大きなバラのリボンを胸にした教授の人物像が伝わって来る。  祝賀会に先立って、短い時間ではあったが「記念講演」として卒業生の一人が、勤務する某社のPRと本人の研究成果を発表すると言う別の企画も設けられていた。やがて司会者の紹介で舞台に立った彼こそが前号に記したT君であった。  修士課程に在学中、就職先の選択を巡って見解の違いから両親との仲に苦悩したが、結果としてはT君が自からの意志で選んだ某社であった。その彼が…いま、会場から沸き上がった万雷の拍手に恭しく一礼して舞台を降りたがその姿は実に凛凛しく見事であった。数年前、悩みを訴えた彼と一緒に何のために働くのだろう。これまで親の言うようになって来た「この子」がここへ来て自分の考えを曲げようとしない、その将来について心配せずには居れない親の気持ちを、少しばかりの代弁をしたかも知れないのも懐かしい想い出だ。あの時、両親の反対が強かったからこそ、自分が進みたいこれからの道に対し、彼自身の中により強固な意識が構築され、ひとつの志となり行動となって研究意欲を深めたとも受け取れた。両親をこの場に招くべきであった。  偏差値重視に問題ありと、ゆとり教育が打ち出されたが、日ならずして学力低下からゆとりのありようが問い直されている。  一方では、18才人口の減少から全人大学などと新たな熟語さえ耳にする。親が子を思う気持ちに今昔の変わりは無いと思いたいが、手の掛け過ぎや口の出し過ぎがこどものたちの「やる気」や「好奇心」と言う芽を摘んではいないだろうか。鳥の目で見守りたいものである。T君へ、よくやった!頑張れ!


この子だれの子(平成19年4月) − 良い子の条件 その2− 


 親の仕事や家事手伝いに自ずから必要とされたこどもたち、学校の宿題もあとまわしに、水汲み・風呂焚き・薪づくり・箒や雑巾を持っての掃除など、その時代にはそれぞれが欠かせぬ日課であった。   −そして半世紀− □そんなことする間があったら勉強をしなさい! □ダメね!!こんな成績じゃどうしようもないじゃないの! □しっかり勉強しないと良い高校(大学)へ行けないわよ □良い学校を出ないと良い会社へ就職できないでしょ □みんなあんたの為を思って言ってんのよ、わかってんの? □同じことばっかり何度も何度も言わさないでよ・・・ 「夏休み蝉よりうるさい母の声」入選した川柳は中学生の作品だと聞いて思わず苦笑したものである。 「良い子の条件」も時代とともに変化したようだ。 以前、理工系で学んだT君が就職活動の最中に悩みを訴えた。本人はメジャーとは言えないが、海外にシェアを持つA社の将来を選んだ。ところが父親の推選する上場企業は資本金・年商売上高、株価などが評価基準の要因であった。  同じく息子の希望に反対の母親も「あんたの行きたいA社とやらはテレビでコマーシャルやってるのを見たことがない」と。 両親の一人っ子に寄せる思いの深さとでも言うのか、その呪縛にT君は悩んだ。親の言うようにしない奴、可愛さ余って憎さ百倍の心情であろうか。義務教育を終え、高校、大学さらには修士課程へと順調に進んで、その都度合格を喜こび祝って来たであろう家族も、こどもが社会人としての巣立ちを目前に予期せぬ嵐に見舞われ、良い子であったはずのT君に悪い子のレッテルが貼られようとしている。  −つづく−


この子だれの子(平成19年3月) − 良い子の条件 − 


 「あ〜ぁ、こんな風に扱われては元気もやる気も失せますよ」!!「教師志望の若い者たちが可哀想ですよ」!!いじめの問題がマスコミによって連日のように報道されていた頃、公立中学校で複数の教師達が歎いた。「まるで学校や教師のすべてが同じように見られているかと思うと情けない」!!と憤懣やるかたない。  議論を重ねる中でいじめている相手を学校から排除する型で規制するような意見もあったようだが、頷けないのが正直なところだ。  人間として一番欲するもの「自分の存在を認められたい」この心理はおとなであれこどもであれ共通であろう。我々がこどもの頃は、まず水汲みにはじまり、トラクターや田植機など夢のまた夢の時代、田畑での作業などすべて人力によるところが大であった。したがってこどもはこどもなりに必要とされ、小学生であっても5、6年生ともなれば貴重な存在として出番があった。  中学生などは大人の仲間入りとして、家庭ではもちろん地域からも当てにされたものだ。むしろその以前に自分自身の中に「俺がやらねば誰がやる」と相手から言われるまでもなく責任感や使命感らしきものを持ち合わせていたようであった。  戦後の貧しかった時代とは異なり、現代はあまりにも豊かであり物が溢れている。そんな中で未来への夢が描けないこどもたちが増えていることも強ちこども達の性だとは言えまい。  農家の子として父親の手助けをする男子、兄弟姉妹の長として年下の面倒をみる者、家事手伝いとして同居の祖母などから評価された女子。「あんた偉いな〜」「お宅の〇〇ちゃん良え子やな〜」などと地域の人達からのそんな声が大きな励ましであった。  学力と点数によっての評価がこどもたちの自己肯定感や自尊感情の低下に繋がっているとさえ思えてならない。   −つづく−

この子だれの子(平成19年2月) − 盗みなはれ!! − 老女のはなし その3


 年始の新聞紙上にこんな記事を見た。「携帯電話で110番」 通報者の住 即把握・現場到着短縮へ 警察庁が発表した新システムの仕組みである。今は信じ難い話だが私が子どもの頃、80戸 ほどの集落で電話のある家など皆無であったことは確かである。  就職先の商店にあった電話は最初に交換手を呼び出し、相手の番号を告げ交換台を通して先方へつながる仕組みであったか。 想えばその当時からすでに半世紀を経たことにも驚きである。  勤め先で掛かってくる電話のほとんどはお客からであり、対応など未経験の私はベルが鳴ると逃げるようにしたものだ。 ベルが鳴ったら直ぐに、お客さんを待たせないようになど、再三に亘り注意を受け、叱られたのも今となっては懐かしい。  電話機を取った老女の応答はこんな形であったこともはっきりと想い出す。「ハイ!!○○でおます、あっ!○○さんでっか へぇー毎度おおきに、えらい寒いこって、皆さんお達者で?あーそうでっか、ハイ○を○個○迄に、○○さんでんな、ハイハイ 確か に承知しました。おおきにありがとうさんで、へえおおきに」。 電話の向こう側の見えない相手にも三拝九拝の態であった。  ある時こんな場面に遭遇した。「これ!!あんた!!人が電話で受け応えしてるとき、どない思うて聞いとってんや?もうひとつ大事な ことも。あんたの給金、だれからもろてますんや?」その声の響きはまさに天の声とも感じられた。「主人や親方からもろてると 思っとってんやったら違いまっせ!!だれでもないお客さんからもろてますんやで。仕事と言うものはナー手とり足とり教えてもらう もんと違いまっせ。人のすることジーッと見て盗みなはれ!!なんでやろ?とよう視るんでっせ、盗むもんやの一心でっせ!!」 少年時代、老女からの教えと仕込みは私の中に今も生きている。

この子だれの子(平成19年1月) − 異聞・一寸法師 − 老女のはなし その2


 「あんた一寸法師のはなし知っとってやろ」老女の語り口調はいつもこんな風であった。一応知っているつもりでも自信を持って「知ってます」とも言えず、小さな声で「うん」と頷いた。 次の瞬間、ほれほれ相手に何か訊かれたら「ハイ」と元気な声で返事しなはれや。返事は必ず「ハイ」でっせ!!つい先程までとはまるで別人の態に身体が硬直して、恐怖感さえ覚えたものだ。  ところで相手は大きな鬼やのに、なんで一寸法師が勝てたんや? ‥‥それは鬼に食べられてしもうたからや、相手の腹の中に入ってしもうたんや。ここがこのはなしの肝心なことやで。  前にも言いましたやろ、「あいつは食えん奴や」と言われるようではあきまへんで、このことしっかり覚えときなはれや。自分が何かを食べるときのこと思案してみなはれ、口に入れるまでに先ず見たり、嗅いだり、舌の上で味加減を確かめたりするもんや。名の知れた学校を出て、勉強がようでけても、誰からも食べてもらえへんかったら何の値打ちもあらしまへんで。この人物ならと見込まれて上司やお客さんに食べてもらえるようになる迄には、いろいろな試しに会ってこなあきまへんでっせ。  相手の懐や腹へ入った者が勝ちだっせ。今は若いさかいにナ〜、そんなもんやろうかぐらいに思ってはるやろけど、歳がいったらなるほど違わんかったと納得できる日が必ずありまっせ。人が好くようなええ匂いはどないしたら出ますんや。品物買うて欲しいと売り歩くだけではあきまへん。品物より先にあんたを買うてもらうことが一番だっせ、解っとってか!!そうでっしゃろ!!  あれから数十年、私はどんな相手に食べてもらいたいのだろう。周りの人達、それとも社会、もっと大きく天を相手にするのか、ひょっとして箸で摘んでもらえることさえ難しいのかも。





平成18年1月〜12月 この子誰の子

平成17年1月〜12月 この子誰の子

平成16年1月〜12月 この子誰の子
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平成13年1月〜12月 この子誰の子
平成12年2月〜12月 この子誰の子
 
 

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