今月のメッセージ

      
 
 

活きる(平成26年12月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
もう何べんも行言ってることだから、耳にたこができているだろうけれども、寿命もこないのに、ひどい病にかかって再び蘇ることのできない人生をあえなくも消しちゃったり、そこまでいかなくても、毎日が少しも恵まれた豊かな気分で生きられないという、哀れ惨憺たる状態で生きてしまうというのは、これは、観点を置き変えてどこから考えてみても、人間としてあり得べからざる事実なんですぜ。
だって、万物の霊長なんだもの。
しかも、その万物の霊長たるいちばんのポイントは、優れた心を与えられてあるがためでしょう。
ほかの生物や動物と比べて、私たちが万物の霊長と呼ばれるのは、二本の足で立っているからじゃないんですぜ。
日本の足だけで立っていることによって万物の霊長という名称を与えられたとしたら、鳥はどうするんだ?
鳥だって日本の足で立ってる。
計り知り得べからざる幽玄微妙の働きと力のある心を与えられていればこそ、万物の霊長なんだ。
その心をだ、使い方を誤ったり、あるいは確保の方法においてミステイクがあれば、これもいつも言ってるとおり、世界一の高速度をもっている新幹線だって、道ならぬところで運転したら、百分の一も能率はあがりゃしないのと同じことだ。
運命なり健康なりが恵まれていない人は、自分自身が人間でありながら、人間としてのほんとうの生き方をしていないがための結果なんだ。
どう弁護しても、その弁護は成り立たないんであります。
だって、原因なきところに結果はないもん。
原因があったから、その結果がきてるんだ。


「幸福の醍醐味 その1」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年11月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
前に言ったね、病は忘れることによって治ると。
それと同じ理屈になるわけなんだ。
自分の腹の痛いのを考えるのと、隣のおばさんの腹の痛いのを考えるのとは、考え方のなかに非常にギャップがありゃしない?
それをあなた方は肉体を自分だと思ったから腹が痛い時に「あ、俺が痛い」と思ったが、そうじゃない。
自分の生命を生かす道具の肉体の一部分の腹が痛いのを、神経系統を通じて実在意識で感覚したんだ。
この考え方の方がほんとうなんだもん。
そしたら、そういう考え方にすればいいじゃないか。
それを「ああ、痛い痛い痛い、どうしよう」。
それがいけないんだよ。

特定意識を自分の心とする習慣がついちまうと、どんな出来ごとに直面しても心の動乱が生じないんですよ。
泰然自若として処置することが出来るんだ。
これだけ聞いただけでもうれしかないかい。
ええ?どっかへ病なんてのは吹っ飛んでいっちまう。
それを、何かたいへんな授かり物でも受けたように寝た間も忘れずに、その病に取り組んでる奴はいつまでたったって治りゃしないよ。
さ、少しでもこの言葉のまねができる人は幸せ。
そうすれば全く違った人間になれるぜ。

※泰然自若(たいぜんじじゃく):物事に驚かず落ち着いているさま


「新天地を拓く その15」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年10月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
よく寝てるときに足の裏をくすぐったとする。
ひどくくすぐれば目を覚ますけれども、ひどくくすぐらないかぎりは、フゥッと何か言いながら横向いちまう。
寝るときはこっち向いて寝たんだけれども、目が覚めたらあっち向いていたということがあるだろう。

ひどい奴になると、頭のほうが足のほうに向いちまう。
さぁ、この人間の心理現象のなかに存在するデリケートな消息を考えると、すべてを客観的に考えるという特定意識を習性づけなさい。
言葉が難しい?何でもいいから、自分のことを第三者の立場に立って考えるように習慣づけなさいっていうんだよ。
すると、心の統御上、まったく格段の相違ができてくる。

私がこうやってあなた方に話をしているときに、「ああ、天風が今ここで一生懸命こういうことをしゃべってるわ」と、もう一人の自分が脇で見てる気持ちでおしゃべりしてるんですぜ。
こういう心がけを実行すると、自分の生命の道具である心や肉体と、ほんとうの自分とを混ぜこぜにしなくなるんです。
いつも截然としてほんとうに自分をぴたりと守って、心を積極的に完全に生きられるようになれるんだよ。
実際ですよ、こうした特定意識で人生に生きてこそ、いつも頼もしい積極的な人生に生きられるんです。
そしてほんとうの幸福なものになれるんです。

とにかく、すごぶる効果のある心がけなんですから、ぜひともこの特定意識を習慣づけなさいよ。
この特定意識で病的感覚や苦痛を客観視する心がけが普段になると、不思議といってよいほど痛みや病の回復が早い。
前に言ったね、病は忘れることによって治ると。
(注:截然(せつぜん)…切りたつさま。区別があきらかなさま。)


「新天地を拓く その14」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年9月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
とにかく、私の教えた方法を一生懸命にやると同時に、できるだけ積極的な心の人とお付き合いなさいよ。
そこで最後に、心を積極化するのにとても役立つ特別の心がけを教えよう。
これは私がインドで教わって、そのままやって、非常に私の病の回復に役立ったんだから、あなた方にも役立つだろうと思う。
それはね、肉体の感覚はもちろんその他の本能的感情や情念、さらに理性心でも霊性心でも、すべて実在意識領域に発現するすべの心的現象を、あとうかぎり客観的に思うことなんだ。
わかる?
これだけでわかる人はいないだろうな。

もっと噛んで含めるように言うから安心おし。
今まであなた方は一切の感覚も感情も、また理性も霊性心も、すなわち心の動きのすべてを直ちに主観意識で思考していたんですよ。
まだわからない?

不愉快だとか、腹が立つとか、あるいは痛みであろうと、怒りや悲しみや憎しみというような一切の感情を、ちょうど自分以外の人が感じているように、客観的に考えるようにしろっていうんだよ。
もっと噛んで含めるように言おうね。
自分の腹が痛いのを、隣のおばさんの腹が痛いように感じなさいっていうんだよ。
鳩が豆鉄砲くらったような顔して私の顔を見てるが、よく考えなさい。
ここが難かしい哲学なんだから。
感覚とか感情とかいうものは、実は実在意識がそう感じるからそう思うのですよ。
霊魂という気体には、そういう事実は少しも感じてないんだよ。
痛い、かゆいというのは実在意識が、神経を通じて実在意識にそれを感じせしめているから感じるだけで、感じなければ思わないんだから。

「新天地を拓く その13」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年8月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
そらから「苦労」ね。
現在苦労はもちろんいけない。
取り越し苦労ももちろんいけない。
そうかといって、持ち越し苦労も、もろにいけないんだよ。
何でも苦労するのが人間として当たり前だと思ってるけど、苦を苦としないで、苦をなお楽しみにするところに天風教義の本領はあるんだから。
それもこれもみんな、意志力が煥発しないとうまくいかないんですよ。
ところが観念要素の更改を毎晩毎晩、厳粛にやっていて、そして一方において神経反射の調整をやっていると、自然とこの積極観念養成が思いどおりにできるようになってくる。

ただねぇ、さっきも言ったとおり、この意志の力は霊魂から出てくるものだってことを間違えて、心から出てくるように思ったら大変な違いですよ。
意志の絶対の力は霊魂が生んでくれるからあるんで、心のなかにこんな絶対の力をもつものがあるものか。

だから、くれぐれも注意しなければならないことは、意志の力が煥発されたのと強情になったのといっしょにしないこと。
よくそれがあるんですよ。

それからもうひとつ補助的手段としては、できるだけ積極的な人と交わりなさい。
もっとも、積極的な心の人と交われといっても、そうたんとはいないけれども。
そういう人と交際するように努力をしなさい。
ところがね、こっちの意志力が弱いと、「あいつ、しっかりしろとか、元気出せ、とか言いやがって、もう頼りがねえや」と思っちまう。
「ああ、わかったよ。気の毒な、うん、つらかろう」なんて言ってくれると、何だか非常にわかってもらった気もちになるんだけど、それはいけないんですよ。


「新天地を拓く その12」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年7月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
「寝がけは何か面白いことを考えろ。何が面白いかな」なんてことを考えたりね。
もうくだらないことを考えて面白がったりしてる人があるんだよ

自分の心の統御に対して真剣な、焼けつくような気持ちがないと、進歩は、ほどが知れてしまう。
それで次に教える「積極観念の養成の第一は「内省検討」。
現在自分の思っていることや考えていることが果して積極か消極かってことを厳粛に自分自身で判断する。
その判断を心でやるからいけないんだよ。
意志に判断させればいいんだけれど、最初のうちはどうしても心で判断するものだから身びいきになっちまう。
同じく「暗示の分析」がまたしかり。
けれど、暗示の分析の方は内省検討よりやりいいわけだ。
ああ、この人の言ってることやしてること、今まではこういうのにすぐ俺は賛成しちゃったけれども、これがいけないんだな、ぐらいのことは飛び抜けた馬鹿じゃないかぎりは考えられるだろう。

いちばん難しいのは、「交人態度」と「苦労厳禁」っていうことだ。
交人態度はね、自分が仲のいい友達や、ふだん心おきなく付き合ってる友達なんかにね、身につまされるようなことがあると、フゥッと引き込まれちまうんですよ。
相手の境遇に同情するのは尊いけど、しまいに同情の堰を乗り越えちゃって「わかる、わかるよ、あんたのその気持ち。聞いてても泣けてくるわ」なんていっしょに泣いてる奴がある。
これは同情の堰を乗り越えちゃって、いっしょに溺れてるんじゃないか。
それをまた片っ方じゃ、「この人はほんとうに思いやりがあるわ」…そういうのは思いやりじゃないよ。
縊りの足を引っ張っているんじゃないか。

「新天地を拓く その11」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年6月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
理性心ばかりじゃない。
普通の人が容易にでない霊性心でも、ちゃんと支配するものが支配しているんだ。
理性心にも霊性心にも支配力がないんであります。
被支配力、支配されるべき立場にいるものなんだ。
タバコやお酒、悪いと知っているのは理性心です。
ニコチンがあるばかりでなく、それがもとで肺癌っていう厄介な病が出る。
何も蒸気の機関車じゃないんだから、煙ださなきゃ生きてられない人間じゃないんだから、飲まない方がいいだろうということは知ってますよ。

だれだって、タバコやお酒をあんまり飲み過ぎちゃいけないことは知ってるよ。
知っていても飲み過ぎちまうのは、結局、言うわりには理性心に統御力がないのみならず、理性心をも統御するものが何だかわからずに生きてるからでしょ。
これは物のたとえですが、ともかく、この状態はイタチごっこだね。
理性心と本能心とチュウチュウタコカイナやってる。
そのときに意志力が煥発されていると、厳然とそれを正しく裁決するでしょう。
「本能心、引っ込め。理性心も無理いうな。両方とも何にも言うでない」
そもそも意志というものは、人間の心のなかの最高級な霊性心をすらその支配の下に従えているという、絶対的な権能があるんだよ。
これは、霊魂のもっている固有性能だもん。
心のなかから意志がでるから、心から湧いてでるように思ったら、とんでもない間違いだよ。
そう思う奴は何のことはない、水道の蛇口を
ひねったら水が飛び出してきたから、水道の蛇口が水を湧かしてたんだと思う考え方と同じことだ。
とにかく意志力を一日も早く完全に出しうる人間になることを努力なさい。

「新天地を拓く その10」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年5月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
今もいったとおり、手のつけられないわがままな子供を、口やかましく理屈ばかりいってる家庭教師に無理やりに躾させようとするも同様だ。
結局はだめですよ。
だめなことを今までやってきてるんだもん、あなた方は。
そうして、しょちゅう心のなかには理性と本能とが衝突してねえ、何ともいえない、もやもやした気持ちで人生に生きると、心のなかがはっきりとしてすがすがしい気持ちなんか感じやしませんぜ。
しかも、この現象が理知階級者の方に多いんですよ。
学問をしない人間、つまり理知の内容量の乏しい人間には煩悶の度合いが少ない。
これなんですよ。
孔子が二千年の昔、「いよいよ学んでいよいよ苦しみ、いよいよ極めていよいよ迷う」って言ったのは。
知らなければ、思いはしませんよ。
知らないことは考えないもん。
そうだろ。
知らないことを考えるという人間はいやしませんよ。
ところが、この点に気づかずに、理性心を統御、支配ができるように思う軽率な考え方で人生に生きていくと、どんなに金ができたって、どんなに身分ができたってだめ。
また、千歩万歩譲ってだ、仮に理性心で本能心を統御できるとしても―これは全然できっこないんですけれども、できるとして、では、理性心は何で統御するってことになるじゃないか。
わかる?
もういっぺん言うぜ。
千歩万歩譲って、仮に理性心で本能心が統御、支配できるとしますね。
本能心を理性心が支配したとする、理性心だけで「俺の言うことを聞くんだ」。
理性心が本能心を支配してるんだけど、理性にヒョイッと間違いがあったときに、だれがいったいその理性を支配する?

「新天地を拓く その9」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年4月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
わがままな欲望や何かの発現を「あ、これは悪いな」と理性心は思っても、本能心を統御する力は全然ないんだから、そこに今度はより新しい煩悩が出てこない?わからない?
じゃあもっと、くだけた話をしよう。
女の人にちょっと申し上げておくが、夫婦喧嘩して、たとえば横っ面のひとつも張り倒して出ていった亭主があったとするんですよ。
向こういって、ああ、いい気持ちだ、とは決して思ってませんよ。
人間である以上は、何もあんなに怒らなくてもよかったけどなあ…
何となく後味の悪い気持ちになるもんだよ、男てえのは。
だから、会社から帰ってきても、帰りたては機嫌とりますよ。
まさかねえ、「けさは悪かったから勘弁してくれ」とはいいませんわ。
けど、何となくね、怒って行ったのがバツが悪いから、うまく手をかえて機嫌とろうとしていると、女房の方はぶん殴られて面白くないもんだから、亭主の方でたとえ尾を振ってきたからって、そう急には犬っころを撫でるような気持ちは出ない。
そうすると、亭主がまた怒りやがる。
「俺はな、けさ悪いと思うけど、謝るわけにはいかねえから、できるだけ穏やかにしてるのに、こんちくしょう、つけ上がりやがって」とまた始めやがる。
男っていうのはね、そういうふうなえげつない卑怯な人間が多いんだ。
私、男だからよく知ってるもん。
理性心と本能心がしょっちゅう取っ組んでるんですよ。
これを煩悶というんだよ。
理性心と動物心が喧嘩してるのが煩悶なんだよ。
喧嘩しなかったら、煩悶なんかありゃしない。
しかるに、出せばだすほど煩悶するのを知らないで、理性心を出してるっていうと、統御に失敗しちまうんだ。
 

「新天地を拓く その8」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年3月) 
− 『 成功の実現 』 −

   
理性の力だけで良し悪しがわかってるからといって、いいことはい いように、悪いことは悪いようにと片づけられたらば、人間、何にも苦労することないがな。馬鹿かたわけでないかぎりは思っちゃいけないことは思っちゃいけないぐらいはわかるがな。それを思わずにはいられないんだろう。
「体が悪くて気分の悪いときなんかに、体の悪いこと考えちゃいけないって言うんだけど、他人の体でなし、自分の体が悪いのを考えないわけにはいかないし、かといって考えりゃ考えるほど悪いってことはわかっていても、考えずにはいられないわ」というのがあなた方じゃないか。
わかる?その絶対にできない相談を絶対にできるもののように思ているのが学者や宗教家やあなた方の常識だ。要するに間違ったことを教えた奴に責任はあるけどもね。もちろん、理性という心の持つ働きは尊いものがありますよ。
こうやってお互いが未開から半分明、文明へと時代が進んできたのは、人々の理性の働きから生まれた結果に相違ない。これは否定できない。
人間の世界だけに進化と向上があるのも、理性心があるから者の善悪や邪正、曲道の判談ができるからではある。
しかしですよ、考えなければならないのは。理性にはそうした優れた働きはあるけれど、心を統御する力がないんだ。
わかった?たとえば、手に負えないわんぱく小僧を、屁理屈ばかり言ってる家庭教師雇って、躾ようとするのと同じことです。子供が心服しない限りは、いくらいいことを先生が言ったからって、言うことを聞きませんよ。理性のもつ力は絶対的ではなく、相対的なんです。 

 「新天地を拓く その7」


抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年2月) 
− 『 成功の実現 』 −


 意志というものは霊魂から出てくるものなんです。霊魂のなかにあるものなんで、心のなかにあるものじゃないんだ。
ところが、全然出どこを違って考えてるものだから、意志というものを尊重しないで―これは学者ばかりじゃない、あなた方もそうだぜ―理性という心を非常に重くみてしまう。
それで、理性さえ優れていれば、心は完全に統御ができると思ってる。そう思ってるでしょう。
その理由とするところは、人間には他の動物にないところの、ものを良いとか悪いとかを考える推理、推考心があると。これが推理ですわね。
ものの善悪、邪正、曲直、是非というものを批判して、判断する力をもっている理性心というものが推理、推考を行ってくれる。
だから本能心のような肉体本意で無反省の心は、良い悪いのわかる理性心で制御するにしかず。

これは、私が青年時代に先輩から、しかもりっぱな学者から言われたことなんです。
偉い学者だとか政治家がいうことをですね、何か絶対の真理のように思い込んでるんですよ。
子供や生徒や使用人や後輩を訓戒するときの言葉で考えると、わかってないのがはっきりわかる、ねえ。
抑制、禁止、挙証、説得……あなた方も、これは大きなまちがいだってことを、断固として悟らなきゃだめよ。
心のなかに思っちゃいけないこと、考えちゃいけないことが出たときに、それを押さえつけたり、思うまいとしたり、あるいは、思えば悪い結果がくるってことをいくら千万理屈がわかったって、心が肉体の奴隷になってたり、心の奴隷になってたら、それから逃れることはできないんですよ。
意志力が煥発してなかったら全然だめだよ、そんなの。


「新天地を拓く その6」

抜粋:要約
人間塾  玉田 光久


活きる(平成26年1月) 
− 『 成功の実現 』 −


 心が絶対的に積極化される人間となるのには、まず何をおいても心を生命の道具として使いこなしていける「意志力」を出す人間にならなければだめだよ。
ただし、聞きまちがえちゃあ駄目だよ。
意志の力の弱いっていうのと、強情っぱりと同じにしてちゃあ駄目だ。
強情っぱりっていうのと、意志の力はぜんぜん違うんだよ。 乱暴と勇気が違うのと同じようにね。

自分に意志力があるかないかは、自分自身が神経過敏か、気が弱いかですぐわかるんだ。意志力の煥発されている人間に神経過敏や気の弱い人間はいないですよ。
「ああ、丈夫になりたい」とか、「ああ、こういうことをしなきゃ丈夫に生きられないだろう」とか、ああでもねえ、こうでもねえ、ということをまだ考えてるうちは、意志力が強い人間といえませんぜ。
意志力がほんとうに煥発されたら何も考えませんよ、そんなくだらないことは
。つまり、否定的な、積極的な、悲観的なことは考えないんですよ、意志力が煥発されていれば。
それは、ほんとうに意志の力が強く出てくるようにならなければ、わからない消息だけれども。
意志の力以外に心をりっぱに使いこなしていける権能をもつものは、絶対に我々の生命のなかにないのであります。
ところが、人生研究の学者や識者の多くは、この意志と言うものを正しく認識していない。
どうもそういう傾向があるらしいんだ。
意志というものを西洋哲学や西洋心理学のいう「知・情・意」で決めちまってるもんだから、少しもこれを尊重しようとする傾向がないんであります。


「新天地を拓く その5」

抜粋:要約
人間塾  玉田 光久

 
 

平成25年1月〜12月 活きる


平成24年1月〜12月 活きる


平成23年1月〜12月 活きる


平成22年1月〜12月 この子誰の子


平成21年1月〜12月 この子誰の子


平成20年1月〜12月 この子誰の子

平成19年1月〜12月 この子誰の子

平成18年1月〜12月 この子誰の子

平成17年1月〜12月 この子誰の子

平成16年1月〜12月 この子誰の子
平成15年1月〜12月 この子誰の子
平成14年1月〜12月 この子誰の子
平成13年1月〜12月 この子誰の子
平成12年2月〜12月 この子誰の子
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