活きる(平成27年12月)
− 『 成功の実現 』 −
「天は自ら助くる者を助く」という言葉は、 古くからある言葉だぜ。それを、自らを助けないで、自分というものをつくればつくられるのに、少しもつくらずにいて、そして、やれ病がどうの、やれ運命がどうのっ て言ってる人間は、早い話が物好きにそう いうことをやってるとしか考えられないじゃないか。
たとえば、右みれば撩乱たる花園があり、左みれば墓場や死骸がごろごろ転がっている。転がってる方面ばかりが見えるというときに、右みてればいいじゃないか。右みてれば、目にうるわしい花が己れ を楽しませてくれるのに、左ばかり向いていて、なんてこの世は残酷なもんだと考えてる奴があったら、その人間をほめるかい。 よく考えなさいよ。人間のほんとうにありがたい点は、この霊性心意識が発現する点にあるんだぜ。
みんな私と同じ気持ちになっていれば、そうなるようになっているんだから。あなた方もそうなってんだぜ、霊性心が発現するように、極端な馬鹿、低能でないかぎりは。 極端な馬鹿と低能は、こりゃあしょうがないよ。しかし、ここには一人もいないもん。 馬鹿だと思ってる奴はいるかもしれない ども。それから、馬鹿に見える奴もいるけれども。
インドの仏像には必ず額に星がつ いています。これを第三の目という。第三の目というのはね、顔に二つある目のほかに、心のなかにもうひとつ目がある。つまり、霊性心意識のでたものはみんな第三の目をつけなければいけないということが、 ヨガの哲学の何千年来の習慣なんです。霊性心意識が心のなかからでるようになると、諸事万事、自分でも不思議なぐらいフゥー ッと名案工夫がでてくるんですよ。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その11」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年11月)
− 『 成功の実現 』 −
精神活動がめざましいものになる。そうなる と、人生ね、たいした努力をしなくても、 健康はもちろんのこと、常によい運命に安住して楽々と生きていかれるようになるわけねんだ。だから、生きるのに骨が折れる とか、生活に対して非常に努力しなければ ならないっていう人は、万物の霊長たる心がまだ完全に使われていない証拠だぜ。
かねて教えたような、気を散らさないで心を はっきり使う練習をしていくと、習いは性となって、求めず、期せず、努力しなくて精神が統一するようになる。そうすると、人間の最高級な霊性心意識というものが、これまた困難なく発動するようになるんです。
前に 言った身持ちの女の、男だ、女だっていうのも、これは霊性心意識が言い当てるんだからね。人間、この霊性心意識が出るようになると、何と言ったら形容が適当かと思うほど、こりゃもう鬼に金棒より以上です よ。安心立命より以上の安心した人生を生 きられる。自分の心を常にはっきり使う習 慣をつけることに努力すれば、三年、五年の後には自分でもびっくりするような霊性心意識という、思ってもみなかった高級な意識状態が自分の心のなかから発動するよ うになるんだよ。
そうなると、どんな場合 があろうと、自分の人生の出来事に心配することもなければ、懸念することもなくな っちまうだろう。ところが、こういう気持ちが出ないと、ちょいとしたことでも人に相談しなければならないようになり、わずかのことでも、果ては物笑いの種ともなるような占い師だの易者なんかにと、ばかげ たことをしなければならないようになっち ゃうのよ。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その11」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年10月)
− 『 成功の実現 』 −
正確にいうと、観察力と連想力が非常に鋭敏になるとああなるんですよ。あなた方だってそうなるのよ。私がそうなってるから、きっ となるよ。
私は病人をひと目見て、あ、これは何の病だ、とすぐわかるだろう。何もいちいち聴診器あてたり、レントゲンで見なくっても、いわゆる認識作用が優れているからなんだ。この間、宮様が目が回るって、会員の 児玉伯爵の奥さんが言ってきた。「ああ、それはメニエール(内耳疾患)」「先生、ごらん にならないでおわかりになるんですか?」 「ああ、メニエール、メニエール」「そう、お 医者さんがそう言ってました」ピーンと感じ 第一印象に狂いはないのです、今まで。
ですか ら、三月、四月ぐらいの身持ちの女に、男、女 って平気で言うじゃないか。それで当たらなかったことがいっぺんでもあるかっていうん だ。当らなかったら大変ですよ。会員の私に対する信頼が全然なくなっちまうからね。
これがね、産婦人科の医者だと、聞いた方も うとう大きな譲歩してますよ。「女っていうから、女の用意をしたら、先生、男が出ちゃったんですけど。やっぱり、出てみないとわ かりませんもので…」「ああ、女のようだったがなあ、男だったかい。わからないもんだ 、出てみなきゃ」なんて、これでお互い勘弁 し合うけど、私の場合どうなるの。 「何が天風や。女いうから女の支度したんじゃねえか。そうしたら男が出たじゃねえか。 ちぇっ、何が精神統一や」と、いっぺんでおしまいだ。ひとことの中にも重大な責任があるだろう。それが、フッと言えるんだから ありがたい。直感力ね。とにかく、貴重な心の奥底にあるところの力がきわめて優 になるんですよ。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その10」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年9月)
− 『 成功の実現 』 −
有意注意の力が結集されると、どうして自然と精神が統一するかっていうと、その結果がですね、心の持つ認識作用が非常にその程度を高めちまうんですよ。パッと見ただけで、いや、見なくっても、「心得のある武士は太刀風三寸にして身をかわす」 といったぐらい、もっと心得のある奴なら ば、フッと入った部屋の中で、アッと殺気を感じる。
中里介山が著した「大菩薩峠」の中の机竜之助、五条の天誅組に参加して爆裂弾で失明しちゃった。宇田川の師匠が五条から連れて逃げる途中にある寺で、「こよい一夜は、ここでゆっくりと手足をお伸ばしなさい。だあれもいない。私とあなただけだから、もうのびのびとして、ゆっくり気を落ちつけて、ここでお休みなさい。長い間ご苦労なすったんですから」と言ったときに 竜之助が、「そなたとみどもだけか?」「 そうですよ。この広い本堂の中にだれもいやしません」 「いや、いる。確かに人がいる」…と、あの本に書いてあるね。
あれを辰巳柳太郎が 新国劇でやるときに、私、舞台稽古の晩に 行ってみて、「だめだい、辰巳、それじゃあ。それはただ教わった台詞を言ってるだ けじゃないか。ほんとうの気持ちで人がいる気分を感じなきゃだめじゃないか」。そ のときに宇田川の師匠が、「だれもおりま せんのよ、ご心配なすっても。ずいぶん前 に調べてあるんですから」「いる。だれか いる」と言ったら、天井の籠の中から曲者 が、「ご眼力おそれいりました。やっぱり大 先生だなぁ」って飛びおりてきた。結局、有 意注意力が盲になっただけによりいっそう鋭 敏になったんだなぁ。だから竜之助は、目が つぶれてから後の方が剣法はすごくなったと いう有名な話だね。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その9」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年8月)
− 『 成功の実現 』 −
無意注意の方はどんな人間にも、人間ばかりじゃなく、犬にも猫にもあると言ったね。 これは生命保存の本能的作用なんですから、別に訓練する必要もなければ、練習す る必要もありやしない。目の前にパッと出たら、そこに目が移る。これは自然的な本能なんだ。ぶん殴ろうとしたら、自然によける。物好きでないかぎりは、ぶん殴れって手を出すやつはいないものね。
第二の有意注意の方は、自分でこれならこれと特定したものに粘り強い注意をふり向けるのが有意注意力なんです。たいていの場合のあなた方は、この有意注意力が欠乏してるんですよ。さっき言った記憶力が鈍いなんていうのは、有意注意力が欠乏してるがためなんだ。癖つけてないものだから、この有 意注意力をふり向けなければならない出来事なり、場面に直面しても、いざとなるとなかなか、その注意をしっかりとまとまったままの状態で長い時間、持続せしめることができないのが普通人であります。
そうすると、知らざる間に精神がばらばらにな っちまう。統一が破れるから。そうなった ら、心のなかに、得たりや賢しとばかり雑 念や妄念がどんどんどんどん飛び込んでく る。そして、肝心かなめの心は滅茶めちゃ にピンボケにされちゃう。ところが、はっ きりした気持ちで物事をやる癖をつけておくと、これまた粘り強く注意力をそこにふり向けようと思わなくても、自然とそうな るようになっている。ちょうど太陽の光線を凸面レンズに通すと、すうっとフォーカスがあったところには驚くべき灼熱力が生じると同じことなんだ。わかったかい。わかりきったことは、くわしく話せば話すほどわからなくなる。妙なものなんです。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その8」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年7月)
− 『 成功の実現 』 −
わかりきったことだけども、心を使うとき、 くれぐれも気なしに使わないようにおしなさ いよ。フワット使うからいけないんだよ。 気なしに使わないようにする。意識を明瞭 にして、はっきりした気持ちをもつってこ とを心がけの第一にしなければだめじゃな いか。
そうすると、正確に観念が集中する。 正確に観念が集中すれば、黙っていて精神 は統一されるんだ。ひとつことは同じこと なんですから、もう、はっきりした気持ち で物をやっていれば、精神は統一されてる んだから、ねえ。
はっきりした気持ちで諸 事万事に応接すると、一体どうして自然と精神が統一するんだろう?おそらく、わか りきったことだけれども、あなた方にはわ かってないことかもしれない。それはね、 心理学的に言うと、「有意注意力」という ものが非常に力強く結集することになるからなんだ。人間の心の行う注意という行為 には、二つの区別があるんだぜ。有意注意 のもうひとつ反対に、「無意注意」っての がある。この無意注意っていうのはね、特 に意識的に注意をふり向けようとしないと き、無意識的に注意がふり向けられる状態 をいう。
たとえていうと、あなた方がこう やって話を一生懸命聞いてるときに、突然 もしくは偶然に目のさめるような女がここへ立ったとか、へんな様子をしてる男がこっちへ立ったら、すぐそっち向く。これが 無意注意なんだ。「見なさいよ」と言わな くても、フウーッと。これは他動的注意とも言う。犬でも猫でももっている注意力なんだ。何かしらん目に映ったものに、咄嗟刹那パッとその方へ、向こうから促されるような状態になって注意がいく。必要なの は第二の有意注意。この有意注意の状態は、自分が特定した事柄に向かって注意をふり向 けようという注意だ。これは自動的注意。
— つづく —
「幸福の醍醐味 その7」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年6月)
− 『 成功の実現 』 −
これが得手、これが不得手っていうんじゃ、まだ本当に心を使いこなしていける人じゃありやせんぜ。何でもそうよ。スポーツだろうが、武術だろうが。いえいえ、私がいつも言うだろう、字や絵の書けない人間ていうのは、心の使い方がへたなんだって。
宮本武蔵を見てみろ。あんな中年までは全く無教育な、目にいっちょう字もなかった人間が字でも絵でもりっぱなものを書くじゃないか。よろしいか、それはほんとうだぜ。結局、心の使い方が完全であるばっかりにそうなれたんだ。俺は不器用だから字や絵が書けないとか、生まれつきどうもこういうことができないって、そんなはずあるべきではないですよ。心に雑念、妄念、邪念がなかったら、どんな人間でも、人間のすることなら何でもできるようになれるんだもん。
私の武術の先生がね、「技ばかりいくら強くなろうと思ったってだめだ」って言うんだ。
「いくら技が強くなったからって、野山にすむ獅子や虎には負けるぞ。武術のほんとうの目的は心を練ることだ」これはまさに、尊い言葉だってことは、私、いく百たびの真剣勝負で体験してきている。
どーんなに腕ができようと、技ができようと、いざというときに心に動乱のある奴っていうのは三文の値打ちもないんであります。人間の力にはちょうど、電気の発生と同様な理論がそこにある。宇宙間に存在するエレクトロンとプロトンとが結合されたものが電気だ。そしてそれが、いろいろの過程と要因によって力になったり、光になったり、熱になるでしょ。エジソンが、こういうことを言いましたね。「人間の心は電気の場合と同じことだ」
「幸福の醍醐味 その6」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年5月)
− 『 成功の実現 』 −
このよい習慣をおつけなさいよ。わけないことなんだもの。日にたとえ一時間でも二時間でもいいから、この時間だけは、はがき一本書くのでも、ちょいと人とお話しする場合でも、すべてを何の汚れも濁りもない澄みきった心でやろうぞ、という習慣を。そういう習慣の生活をするようになると、心の状態にもう何ともいえない余裕が出てくるんですよ。
どんな場合にもあわても驚きもしない。どんな用事の多いときでも忙しくてたまらない、なんてことは言いませんよ。はっきりした気持ちでいくと、心が物にとらわれないで、心
の前に現れたものをみんな心のなかに受け入れる。これがコンセントレーション(集中)なんだ。傾注は、心がけなくてもだれでもできるんだ。集中は心がけなければできない。
よく平気で、忙しくってこのごろは目が回るようだって言う。忙しくて目を回した奴をまだ見たことはないけれども。とにかく、それは心がすっぽり向こうへ虜になっちゃってる状態。つまり、気が散り過ぎちゃってる状態。人間の多くがとかくすれば気が散りやすいのは、自分じゃ気がつかないうちに、己れの心のなかに不必要な雑念や、妄念や邪念がたくさんたまってるからなんですよ。どんなに自惚れて自分を考えても、それは自惚れだけのことなんだ。何かなしにあなた方の心はとらわれてるぜ。欲張りは金にとらわれてるし、恋に狂ってる人間は恋にとらわれている。そうすると、心は自分の生命を監督するために働かさなければならないのが、感情や感覚の奴隷になっちまう。そうなったら、もう実に人間は惨め以上の哀れなものになっちゃう。
「幸福の醍醐味 その5」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年4月)
− 『 成功の実現 』 −
お集まりの諸君の顔見てると、一心に聞いてる人と、なかには何かを思い出しちゃって気がそわそわとしてるものがある。出がけにガスの栓してきたかしらんとか、電気ストーブのスイッチひねってきたかしらん、なんてことを考え出すと、もう私の話しなんか聞いてる気になれないもん
。話しをしながらしばしばあなた方の顔を見てると、ああ、この人は私の話とピタッと結びついているわというのと、でないのは、すぐわかるんですよ。とにかく、心がまとまってないんだ。しょっちゅう、ちらかっちゃってるんだから。ちらかってたらば、心の力、働きは、それはもう哀れ惨憺たる状態になってしまうんだ。ばらばらになっちゃってるもの。たくさんの仕事や、ややこしい事件に直面すると即座に面食らっちまって、さながら釘づけにされたように手も足も出ないウロチョロ組になっちゃう奴がいる。
柳生但馬守がまだあれだけの達人にならないとき、ある日たまたま沢庵禅師にこういう質問をした。「一本の剣はあしらうのにさほど困難を感じませんが、五本、六本といちどきに出たときはどういたしましょう?」。これも今のウロチョロ組ですわね。そのとき禅師、笑いながら、「五本が十本であろうと、一本としてお扱いなさい」って言った。但馬守は馬鹿でないから、「ああ、そうですか」とわかったというんだが。普通の場合、そういう教えを聞かないと、目の前に山のような仕事がくると、手も足も釘づけされたようにただウロウロするだけになっちまう。つまり、気のまとまりが失われちまうからそうなる。
習慣は第二の天性。習うより慣れろで、いつもはっきりと澄みきった気持ちで片づけていけるようになる。
「幸福の醍醐味 その5」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年3月)
− 『 成功の実現 』 −
どうです?もう少しくわしく言えば、執着から解脱して、つまり雑念、妄念、邪念から心を放して、気を使うのが気の散らさない心なんだ…と、詳しく説明されると、かえってわからなくなっちまうだろ。人間が心を使うとき、気が散っていることぐらいいけないことはないんであります。
なぜ気が散るといけないかというと、気が散れば心のまとまりがくずれてしまう。ノイローゼにかかったり、神経衰弱にかかったり、神経病の一歩手前に入っちまうのは、この気の散り過ぎが原因なんですぜ。
頭の中は線香花火みたいに、パッパッパッパッ、いろんなことを考えてますわ。そうなるとね、心本来の力も働きも分裂してしまうからだめなんです。心というものが、まるで花魁の花かんざしみたいに、あるいはカニの手みたいに食い物に、お金に、女に、煩悶のことに、心配事に、あるいは何かとエトセトラ。そうすると、たとえば百の心がこ
こに十、ここに十、ここに十、ここに十、ここに十、ここに十となると、残るところは四十だろう。百の力を与えられていながらボルテージが下がっちまうから、わずか四十だけの力で人生を生きるべく余儀なくされたら、神経衰弱にもなればノイローゼにもなるよ。百貫目もち上げられる力を与えられていながら、六十貫だけ他へ使っちゃって、もち合わせてる力が四十貫になっちゃったら、目の前に百貫の物が出たときはどうする?わかりきったことなんだよ。いま現在、己れの心がどっかにひっかかっていやしないか。よく考え
なさい。
「幸福の醍醐味 その4」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年2月)
− 『 成功の実現 』 −
いつも意識が明瞭になろうと思ったら、つね日ごろどんな些細なことをするときでも、はっきりした気持ちでする心がけをゆるめちゃいけないんですよ。わかりきったことなんだよ。そいつがね、言われたときはだれでも、ああそうか、と思うんだ。言われたときだけで、すぐ忘れちゃう。忘れちまえばいつまでたったって、万物の霊長としての価値を発揮するために与えられた心の力も働きも出なくなってしまうじゃないか。
いくらね、すばらしい力と働きのある心を与えられていても、これを使いこなしていかなければ宝の持ち腐 れですぜ。かえって心があるばっかりに、犬や猿や豚もしないような煩悶や悲観や失望をしなければならない。普段の心がけですよ。どんな些細なことをするときでも、はっきりした気持ち、心持ち。少し
の注意で出来るはずなんだもん。
すると、それがりっぱに精神統一の根本要素になる。いくら精神統一をしようと思っても、いちばんの大根土台となってる心がピンボケだったら、精神統一はできそうにもありゃしませんよ。心をはっきりするってことは大変なことなんだから。心をはっきりとさせると、精神生命の可能率は自分でもびっくりするように促進されてくる。だから、諸事万事どんなことをするときでもはっきりした心持ちで応接しなさいよ。はっきりした気持ちというのをわかりやすく言うと、なあんだ、そんなことか、と思うことなんだよ。それはね。気を散らさずに行うことがはっきりした気持なんだ。
「幸福の醍醐味 その3」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
活きる(平成27年1月)
− 『 成功の実現 』 −
体が弱いとか、あるいは体は丈夫だけれども仕事が思うようにうまくいかないとか、毎日ひにちの人生に豊かな気分を味わえないとかっていうのは、みんな自分が蒔いた種に花が咲いたんだ。
それを気がつかないで、いや世間が悪いの、何となく俺には運命が巡ってこないんだ、なんて考えているところにたいへんな寸法違いがあるわけなんだ。
運命に対しても健康に対しても、あくまでも自己に絶対の責任があるんだと考えたときに、その考え方のなかから割り出されるものが非常に正当になってくるんだ。
その考え方の大根大本がまちがっていると、思うこと、考えることがみんな脱線しちまう。
そこで、精神生命の可能率を推進すべく、「いかに心を使うか」ということであります。
あなた方もよくご承知のとおり、習慣はこの天性である。
わかりきったことなんだ。
わかりきっていながら、いい習慣をつけないで悪い習慣をつけているから、天性が悪くなっちゃう。
神経過敏になったり、くよくよといろんなくだらないことを思って煩ったり、悲観したり、失望するのは習慣だもの。
「いえ、私は、ほんとうに体が悪いから心配してるんです」「私はままならない浮世に生きてるからこそじれったくて、どうしても心がこんがらがっちまうんだ」という人は非常にまちがいなんだぜ。
自分の言ってることにまちがいない、と思ってるまちがいなんだ。
そいつが習慣になっちゃってる。
だから、何をおいても、諸事万事、もうどんなことがあろうともはっきりした心持ちで人生に応援するようにしないと、いろいろのエラーやミステイクが生まれてしまう。
「幸福の醍醐味 その2」
抜粋:要約
人間塾 玉田 光久
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