今月のメッセージ

 
  この子だれの子(平成13年12月)  「師走・先生が走る? 」
 日本で、世界で、この一年の10大ニュースが報じられる 時期となった。トップの座は何と言ってもニューヨークでの 同時多発テロの事件だろうと想像がつく。不況や失業率、狂 牛病、自衛隊派遣の問題、外務省の人事、国会での論戦にも 全く関係のなく四季が移り、自然はめぐり、山々は錦織りなす 裾模様となり、早いもので今年も師走を迎えた。  この先一年、過ぎ去りし一年、時間軸に長短があろうはず も無いが、何故か過ぎし一年を短く感じるのは不思議にさ え思う。お祭が、お正月が早くこないかと感じた我がこど もの頃は、ご馳走が喰べられる、新しい服が買ってもら えると、そんな夢が一年を長く思わせたのかも知れない。  さて、学校教育は平成14年度から「総合的な学習時間」が、 スタートする。移行期間といわれる最終年度も残り少ない。 「生徒にどんな力を身につけさせるか」各学校が内容を決め るようなっている。総合的な学習と選択教科の時間配分を どうするか、基礎、基本の徹底がますます重要となってくる だけに、いま学校現場は文字どうり「師走」そのものだ。  ゆとりや自由を勝手や気ままと感ちがいすると大変だ、生 徒やこどもたち以前に親の目的意識と教師一人ひとりの資質 も問われることになる。年令や学年を越えて、屋外で群れて 遊んだ頃の「ガキ大将」は地域社会の一役を担っていたのか も知れない。地域も親も、これからどうする!!どうする!!


この子だれの子(平成13年11月)
 ITの時代といわれる21世紀は、逆に「心の時代」とも いわれるが「心を大切にしたネットワークサロンを創りたい」 そんな思いで発足したコムサロン21が、本年9月無事に 10周年を迎えた。お蔭様でと感謝の念を新たにしたい。  姫路商工会議所にもいろいろとお世話になり、伝説のドアマンとして知られた名田正敏氏を講師にお迎えさせていただき「心の絆を求めて30数年」と題して、特別記念講演会を開催できたことは、実に感慨深く大きな喜びであった。 「頑張っておられる方々を少しでもサポートできればとボケない限り一生懸命おつき合いしたい」と後輩たちの指導に余念がない。その熱き思いが伝わってきた。  人生80年の時代だ。老大での学び、仲間とのふれあいや趣味に、或いはサークル活動にと楽しむことも生きがいの創造として大切である。むしろ人生を生き抜いてきた体験から、 その精神力や忍耐力は若い者に及ばぬものさえ感じられる。  刑法犯少年や不登校生の増加、児童虐待等々に見られるように、こどもたちを取り巻く環境を思うとき、孫の躾、まして他人のこどものことまで、なんでいまさらと放っておけない問題ではあるまいか。人生の先輩として伝えておかねばならぬことは何か、次世代に遺すべきものは何かを思案したい。  いまの利害、自分たちのことより子孫のことを気遣っての生き方と暮らし方をこどもたちに示したいものだ。


この子だれの子(平成13年10月)
緊張と笑いが入り混った依頼主との面談を終え、帰路我々は縄のれんを潜った。昼間の茹るような暑さに、夜の冷えたビールは一段と美味である。「ご苦労さ〜ん、かんぱい」となった。 「成績も上げない、答えも教えないというから、俺正直、とまどったぜ」「いろいろ助言してもらって救われましたよ。潜在意識のことや動機づけの話しは僕自身も大変参考になりましたよ」と同行した私に礼をつくすのだった。  既に就職が内定したM君は、大学院の二回生で、研究室での人間関係のこと、来春からの仕事のことなどが話題となった。 「ひとまず今夜のお見合は合格かな、あとのことは頼んだよ」 と居酒屋を引き揚げようとしたとき、彼が携帯を取り出した。 「ヤバイ!!さっきの娘からメールや」上気した面持ちで、「これ見て下さい」と携帯を差し出す。訪ねて行ったことのお礼と、こんな私ですがどうかよろしく、と丁寧語できっちりとした文章だ。オッ!!なかなかやるな、と二人は顔を見合わせた。 興味を持ったことは覚えも早い、指示や命令に嫌々では心が 受け止めない、したがって覚えも悪く身につかない。 母親のいう「全然ダメ」とは何を指してのことだろう。 携帯を使って「学年メール早打ち大会」でも催してみたら、彼女は決っと上位の成績で入賞するかも知れない。 「返信のメール、文句はどうしましょう」と訊く彼に「教え ないのが君の方針だろ」私のことばに今度はM君が途惑った。


この子だれの子(平成13年9月)
学校の夏休みがはじまるとすぐ、旧知の婦人から「特別にお願いが」と、身体をすり寄せるようにして頼まれた。 「中学一年生の孫娘が、学期末テストで成績が良くなかったから、家庭教師を紹介して欲しい」という。 とり敢えず、依頼主である母親と電話で話してみた。   まず、家庭教師のことは、娘本人も納得しているか?   学校でのクラブ活動は? 特に希望の教科は何か?   都合のよい曜日や時間帯のこと。現住所はどの辺りか?   成績はどの程度?の問いには「それが全然だめ!!」と母親。 おばあちゃんとの縁が、その娘と孫へと拡がろうとしているが、顔の見えない相手、いったいどんな母娘だろうと想像してみる。はて、さて、教師役は誰にと首を傾げた。  あらましを伝えたM君を伴って、「何だか緊張しますね」と目的地の略図を片手に相手先を訪ねた。 お互いの自己紹介が終わると、M君が訊く。朝の起床は○時? お母さんに起こされるのかな、学校は楽しいか?クラブ活動は、一人っ子って寂しくないのか、君の趣味は?・・・・・お兄ちゃん先生は優しく、語りかけるように。両者が笑顔での対話に、仲立ち役の当方も半ば安堵である。  やがてM君の口調が変わって、「二人(母娘)ともよく聞いて欲しい、僕が君の成績を上げることはできない、問題の答えを教えることもしない、目標に向かって一所懸命に頑張る君に、一寸だけお手伝いするだけだよ」打ち合わせにない予想外の展開に私は一瞬とまどった。      ―つづく―


この子だれの子(平成13年8月)
―肩たたきむかし孝行いま不幸― 不況による人員整理が目的の いわゆる「肩たたき」。定年まであと1〜2年ならばともかく、早期 退職を募るといういまの世相をうまく表現した川柳で、入選作のひ とつである。(孝行?いまや死語?解説が必要かも?) ―親孝行したい頃には親はなし― つまり親の生きている内に 親孝行しておけよ、との意であろうが、この川柳に対して、こんな 作品があった。―親孝行したくもないのに親が居る― というの だから、いくら時代の変化とはいえ、苦笑ではすまされない気分に なる。―這えば立て、立てば歩めの親ごころ― と生み、育んで 来た親の立場などあったものではない。だがしかし、「したくもない のに親が居る」と感じるこの子はだれの子か、が問題である。  こどもの誕生日に友だちを招いて、ケーキに立てたローソクを 吹き消して、みんなでハッピーバースデイとその子の誕生を祝う。 こうしたパーティーを催すこともひとつかも知れない。 Kさんの家では、毎月祖父母の墓参りを欠かさない、それがK家の 家訓にしていると聞いた。下校したこどもといっしょに、親たちが 我が親への墓参。「おじいちゃんが、おばあちゃんはネと、こどもに 語り継ぐひとつばなしの中に、丁度絵本の読み聞かせのように。  一流大学を出て、有名企業に就職したとて、親への感謝も、親の 恩も感じない人間であっては、動物にも劣ることになる。 己のいのちの元は親である。親から子へ子から孫へ、いかに時代が移っても、親ありて子、いのちの循環と順序は不変だ。


この子だれの子(平成13年7月)
「オバアチャン、いつ死ぬん?」曾孫の唐突な質問にびっくり仰天!! 「ずうーと生きとん?」「そんなことおばあちゃんかてワカラヘン」 「こない言うたんやけど…ことばがのどにつかえてしもて…」 丁度居合わせた一人も、自分のことのように憤慨して「ようそんなひどいこと言うわ」!!と八十代半ばの二人は興奮していた。  急に飛び出すと、自動車に当たって死んじゃうのよ、母親が教えたのかも知れない。幼児なりに虫や小動物の動かなくなった姿を見て心のどこかに「死ぬ」と言うことばを身につけたかも知れない…とおばあちゃんがこんな風に受け止めたなら、心臓が止まるほどのショックに遇うこともなかったのだが。 「小さい子がそんなこと言うのは、母親がいつも話しとんやで・・・」 「としよりははよ死んだ方がええんや」「そんな弱気でどないすん、わてやったら、そんなこと言うもんやない!!孫に躾するで」 「朝星、夜星で働いてきたんや、洗たくもご飯炊きもいまら楽なもんや」「いま若いおもてるけど、じっきに年寄るんや」 …いつの間にかおばあちゃん二人の話題は、むかしばなしと嫁・姑の確執へと転嫁するのだから困ったものだ。  言語能力の未成熟な幼児の素朴な疑問が、とんだ方向に発展した。人間のそだちを考えると祖父母の居る環境が好ましいと思えるが、めでたく歓迎される生とは反対に、死は不吉で嫌われものである。私を指して「あんたにも、わてらの気持ちわからへん」…こんな場面でお二方の大先輩をどう執り成すか、私には聴くしかなかった。


この子だれの子(平成13年6月)
「俺とこの会社、危ないみたいや」息子がポツリと呟いた。 「いまのうちに次の仕事探しときよ」「そんなことせえへんで」妻と息子のこんな遣り取りに苦笑していたが、結果が出たのはそれから間もない頃であった。「社長、これからどないすんやろ」と息子。  妻は何種類もの求人広告を手に再三に亘り意見を求めるが、あまり興味を示さない私の態度が不満のようであった。「あんたとこ、お父さんはぎょうさん知り合いがあってんやさかい、一寸頼んでもろたらええやんか。みんながそない言いよってやで」と切り出してきた。 「二人ともよう聞け!!」いつになく語気を荒げた私の口調に驚いたのか、息子も妻も正座となり一瞬、張り詰めた場となったのも我が家にとって久しいことだ。自分でも妙に興奮を感じていた。 「自分で選んだ何社かの中で、おやじどう思う?との相談ならともかく…私のことを薄情とか冷たいと、お母さんは言うのだが父親とはこんなもんだ」人として育つためには理と情、両方が必要だ。 「自分が勤めるでもないに、あっちかこっちかと、それも母親しかでけへん親心や、有難いやないか」強ばっていた妻の顔が少し緩んだ。「やがて女房こども養うて家計の遣り繰りせねばならん、子どもの人生にいつまで親が手出しできるか、放っとけ!!」妻の表情が再び険しくなった。「怒って言わんでもええやんか!!」黙って引き下がる相手ではない。「悪いけど、俺、初めからおやじの顔でなんか思ってへんで」と息子のひとことで夫婦の角力も水入りとなった。近頃は、女は強し母も強しと言うことか。我が家でのおそまつの一席。


この子だれの子(平成13年5月)

 「ねがわくば花のもとにてなむ死なん…」と詠んだ歌人が居た。桜花爛漫の中、親しい間柄であったYさんが、かねて入院加療中のところ薬石効なく息を引きとった。懸命の心肺蘇生も虚しく。  「生きる」とは息(呼吸)することにほかならない。 呼(吐)いて吸うことの連続だ。新生児でさえも出生と同時に呼吸活動をするからこそ、生きて育つ。既に生きる力を授かっている。  生命を維持するために「吸うのよ。ほらこんどは吐くのよ」「アァ〜、吸ってばかりじゃ死ぬのよ!!早く吐いて…」と教えた親は居ない。我々も熟睡中は無意識だが、それでもちゃんと呼吸しているからこそ、目覚めがある。自らの意識で息をするものなら迂闊に眠れもしない。人体の妙なる仕組みと働きは全く不思議そのものである。  呼吸活動と同じく、食べること、排泄することも相反する作用だ。生きるためには食わねばならぬと言うが、排泄せねば生きられないことも確かな事実だ。食うことのみに心を向けるのはなぜか。  入ると出る、吸うと吐く、大自然の摂理である反作用が命を守ってくれている。こども時代や学生の頃に身につけ、吸収したことを、大人になってから人のために、社会の上にと大いに発揮することも、吸うと吐くとに似ている。高学歴も自分丈のものなら意味が無い。  親自身が足ることに気付かず、「もっと、もっと」と求める(吸う)ことのみの考えや行動は危ない。一寸した便秘で済むうちはともかく、運命の過呼吸にはなりたくない。放す、出すは損をすることではない。子どもたちの目と心はいつも親のことを観ている。


この子だれの子(平成13年4月)


 梅、桃、そして桜へと春の訪れだ。春は季節の変化とその他にも、人間にとって人生の転機とも思える。  卒業、就職、転勤、或いは退職もある。めざす高校や大学に合格の喜びを味わうものと不合格に泣く者も出る。  陽春の裏には厳しい選別も同居するようだ。別れの時でもあり、又新しいスタート、再生のときでもある。  喜びと悲しみ、いずれにせよどう受け止めるかを問われる。受け止め方次第で次の道が開けると思いたい。  よく知られる話に「雪がとけたら何になる?」この問いに物理的には「水になる」が正解と言えようが「雪がとけたら春になる」との答えは真に明るい。  受験したこどもの不合格に「ご近所に恥かかして、お母さん外へも出られないわ」と、こどもの将来を狭くしたり、相手の心に深い傷を残すようなことばは禁物だ。「卒業してから社会で役立つ人間になることこそが、ほんとうに大切だよ」と合格した子には喜びとともにこうした心がまえをしっかり伝えておきたいものだ。  貧しい中からやっと買ってもらった新しい靴、一足の靴が宝物のように嬉しかった我が子ども時代を想う。「より豊かな生活を求め頑張っているつもりで、真の豊かさから遠ざかっている自分に気がつきました」と語る青年が今も居る。大人や親の関わり方こそ思案したい。


この子だれの子(平成13年3月)


現今の世情を熟々大観して末世の様相に深く憂憤を抱きつつ惟うに、古来から日本の佳き傅統悉く崩れ、就中言語の乱れの太だしきに至っては言を俟たず。  剰さへ服装の乱れは心の乱れとなり、陋規の乱れに及んでは、治乱興亡の歴史より推察すれば、應に、危急存亡の秋なり、教育は國家の基礎にして、師弟の和熟は教育の大本たるを忘れた、今日の教育の場に於いては奈何、師の服装は、言語は、禮節は、祖國意識は、何かにつけ我が身大切と徒らに、生徒に目線を合せ、妥協することが、物わかりが良いと思い込み、怒ると叱ると、叩くと撲つの區別さえも出来ず、新聞紙上に後を絶たぬは如何なるものか。 これに反して生徒の師に封するは、友達の如き粗略な口のきき方、挨拶に於いても正しき指導の出来る教師、否、家庭に、職場にどれだけの人がいるのか。 政治は腐敗し、倫理は蜘蛛手の如く・・・。 ―中略―庶幾くば、江湖の有志諸賢の協賛を得て、この悲願を成就せんと念願するものである。有志の士の斯の道業に賛同あらん事を。  「請願状」と記されたこの書面、無策為とも思われず、何故私の手許へか合点がいかぬ。  況してや文中の字義や語意の解釈は辞書に頼った。


この子だれの子(平成13年2月)


 出席者のほとんどは似かよった年齢で、小学生や中学 生のこどもを持つ父親だ。毎年恒例の忘年会、今年の幹 事役K氏は私立女子短大の教師であった。 さきほどから皆んなの視線と質問が先生であるK氏に向けられたのも当然かも知れないが、仲間内の気安さも手伝って彼等の会話に丁寧語は不必要のようである。  昨年末、大学時代ラクビー部であった先輩、後輩の集いに招かれ、番外者の私も参加となったのだが、折から16才の男女によるタクシー運転手強殺事件と、容疑者 である女子高校生の両親がともに教師とのニュース直後とあって、今夜の座敷はいつもとは全く違った雰囲気の中で妙に盛り上がっていることに興味を覚えた。  先刻より学校や教師批判の意見に耐えていたようすの K氏が「どう思います?」と鉾先を私に向けてきた。 「容疑者の二人、親から真に必要とされ、愛されてきた か、そこに問題が・・。君たちも我が家の経営者としてどうあるべきか、結果を誰かのせいにして居てよいものか、こそだては大事業だと認識しよう」等と私も意見を述べた。  散会後、駅まで見送ってくれたK氏が「別の機会に 二人で呑み直したいです」と小声で囁いてくれた。


この子だれの子(平成13年1月)


 「おやじの話しはくどい」!!語尾にアクセントを強めた息子のひとことが、ちくりと蜂のひと刺しとなり父親の胸に効いたようだ。年が新まると70才を迎える知人のKさんは、同居の息子に父親の思いが届かぬことに不満とイラダチを募らせ溜め息をついた。  家族や家庭にあっても、社会生活の場でも言葉の遣り取り、コミュニケーションが欠かせぬことは、誰もが分っているのだが。相手のことばを単に音として、耳に聞くか、集中して心で聴き取るか、ときには相手の考えや言い分を反復しながら「どうしたいのか」と訊いてやる。  「聞く、聴く、訊く」日本語の持つ意味のすばらしさと難しさでもある。会話というキャッチボールがなかなかうまくゆかないのは我が家とて同類である。  私が中学生のころから繰返し、何度となく聞かされた父の話しに「今さえよかったら、自分さえよかったらの考えは絶対にしてはならん。」それが父のひとつばなしであった。親の価値観の押しつけだと思っていたが、いまは遺訓として、折にふれ三人の子らに語り伝えようとしているところだが、決っと我が子も「おやじはくどい」と耳でしか聞いていないのかも知れない



平成12年2月〜12月 この子誰の子
 


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